井手教授のいう「新しいリベラル」がちっとも新しくない件

井手英策・慶應義塾大学経済学部教授の記事「(あすを探る 財政・経済)中の下の反乱、食い止めよ」を読んでみた。

hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)の「水島治郎『ポピュリズムとは何か』」   のコメ欄に紹介されていたり、ツイッターで話題になっていたので読んだが、どうにも論理がわからなくて混乱している。

記事は、「「一億総中流」を信じ続ける時代は一体いつまで続くのだろうか。」と始まり、「この20年で中間層の多くが低所得層に加わった」と続ける。

井手氏の考えでは、今の日本は「財源が限られ、給付に所得制限がつき、財政が低所得層の利益で固められている。」しかし、「持てる者から奪い、弱者を助けるやり方では分断を深めてしまう」

そこで以下のように論じる。

中の下の反乱を食い止め、中低所得層に連帯をうながす方法、それは、すべての生活者のニーズを満たし、増税への合意を引き出し、生活と財政の将来不安をともに払拭(ふっしょく)することだ。既得権をなくし、分断を無意味にしつつ、納税者の受益を強め、税への反発を和らげるのである。

 そこで、消費税の再増税に向け、2%の使途を財政再建から生活保障に切り替え、受益者を大胆に増やしてみてはどうか。財務省には厳しい案だろう。だが、受益が実感され、租税抵抗が弱まり、次の増税への道が切り拓(ひら)かれれば財政の歴史は変わる。分断社会と財政危機を終わらせる。今こそ新しいリベラルの出番だ。

「(あすを探る 財政・経済)中の下の反乱、食い止めよ」より引用

 

「今こそ新しいリベラルの出番だ。」なかなかいさましいですな。

いさましいのはいいが、そもそも今回の消費税増税は「社会保障と税の一体改革」ということで、全額、社会保障の充実と安定化に使われる予定のものだった。その使われ方がまずいですよというなら話はわかるが、「2%の使途を財政再建から生活保障に切り替え」るべきと言われても、今の方針と何が違うのかちっともわからない。

それに、財政再建の優先順位をいったん下げましょうというなら、なんで増税が必要なのかもわからない。国債発行でもいい。国債の方が景気を痛めつけないのでずっと良い。景気が良くなった方が、財政再建しやすいし、インフレになってから増税すれば、インフレを是正する効果も期待できる。

井手氏の記事をまとめると「消費税を2%上げて低所得者からも万遍なく税をとって、所得税累進性をなくして中高所得者層にも恩恵を与えれば社会が安定する」?こうですかわかりません。

あるツイッターの方が、氏の共著『分断を終わらせる』を読んで、次の図を紹介していた。

出典:https://twitter.com/Bulldog_noh8/status/773326696200056832

 

もしかすると井手氏は話をわかりやすくしようと、単純化して説明しているのかも知れないが、ますますわからない。

まさか現状が左だ、と言っているわけではないと思うが。

現状は、年収200万円でも税やら社会保障合わせて年間数十万円取られているし、医療や道路などのインフラを考えれば、貧困でも富裕層でも公的サービスを同様に受けられており、そして単に年収200万円というだけでは何ら特別な給付はないので、右の絵に近いと思う。

あと、中高所得者層の例として2000万円というのもずいぶん極端だ。一般的に年収2500万超えると超富裕層の扱いだと思う。せめて「中高」というくくりならば、例としては800万円ぐらいで考えればよいのにと思う。

私は日本はもう少しGDPに対する政府支出の割合を大きくしてもいいと思っているが、別に消費税にこだわらないし、時期についてももう少しタイミングというものがあると考える。

2016年5月16日付の「政府税制調査会海外調査報告(オランダ・ドイツ・スウェーデン)」 の参考資料「国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較」(下図)を見ると、日本は個人所得課税が他の先進国に比べると圧倒的に低い。大きな政府で福祉社会をめざす人が、消費税だけを主張するのはなぜなのかちっとも理解できない。

 

井手氏の記事では「新しいリベラル」と書かれているが、かつての民主党を含めた三党合意で社会保障と税の一体化にもとづく消費税増税が決定され、安倍政権のもとで実施され、2012年度に国民負担率40.5%だったものが2015年度予算では43.4%になるとのことで、別にリベラルでなくても与党が粛々とやっている。どこが「新しいリベラル」なのかわからない。

そしてこの増税と、財政緊縮のおかげで景気はちっとも回復できていない。

景気回復後にじわじわといろんな国民負担を増やして、10年後ぐらいにオランダ程度にもっていくのは全然反対しないのだが。

立命館大学経済学部教授の松尾匡氏のパワポスライド「反緊縮時代の世界標準経済政策」を見ると、「GDPは政府支出の推移をなぞる」とのことなので、消費税増税しても十分に財政出動すれば景気は持ちこたえるかも知れないが、左派の中でさえ緊縮派が幅を効かせる日本では、到底、国債増発によって財政を増やせる見込みがない。

 

ひとびとの経済政策研究会 パワポスライド「反緊縮時代の世界標準経済政策」より

 

実際のところ井手氏のような考えは「新しいリベラル」ではなく「古いリベラル」だと思う。新しいというなら、松尾氏のように、金融緩和や反緊縮を訴えるぐらい、既存の流れを変えてほしいものだ。

そのことによって、中の下~中の中までの7割のひとびとの可処分所得を改善し、さらに5%の貧困層への生活保障を充実しながら、多少のインフレを実現することによって将来不安をなくす。そうして初めて、中高所得者層も安心して税を担い、全所得階層への公的サービスを拡充することができると思う。

2015.8.28付の税制調査会資料「日本の格差に関する現状」を見ると、日本は格差が拡大しているとまでは言えないが、経済停滞により貧困層の増加が懸念されている。ここまでの認識は井出氏と同じだ。

しかし、結論を一気に消費税増税には持ってきていない。「経済の成長力を高めることによる「パイ拡大」が、所得の向上、貧困対策にも有効」と結論づけている。その他の論点も大変納得できるものだ。

  • 経済が上向いた時期に格差議論が高まる傾向(株価上昇による資産増や非正規雇用増などが要因とみられる)
  • 経済停滞の中では、格差拡大は抑制されても中間層の衰退・脱落や全階層のトータルなシフトダウンが生じている可能性
  • 格差への対策とともに経済活性化による所得の全般的な底上げが焦点に
  • 景気回復の流れを広く波及させていく環境づくりを進めていかないと、格差や格差感が先行き拡大してしまう懸念

そしてパイの拡大だけではなく、下図のように複数の観点から対策が必要だという。(トリクルダウンという言葉の使い方が独特だが、下記の定義(賃上げ、雇用拡大等好循環の形成のための環境整備、地方創生、中小企業対策)なら違和感はない)

「新しいリベラル」に必要なのは、あらためて経済の重要さに着目すること、パイを拡大しながら格差対策を同時に行うこと、そして各施策を自民党よりももっとドラスティックにしていくことではないだろうか。

たとえば「失業時の所得保障」などについては、現政権のもとでちまちまと自発的退職時の給付期間延長が議論され、どうもこれすら実現しない様子で、それどころか雇用保険の積立金が余ってるので保険料減額などやっているが、自発的退職であっても最初から給付するぐらいの法制度改革をどんどん提案してほしい。

「日本の格差に関する現状」より

 

(追記)お名前の漢字を間違えていたため修正しました。

 

象からソ連と日本を取り除くと、象の姿が崩れる

ツイッターで良く炎上を起こすLINEの某氏が、最近、グローバリゼーションの話題に触れて、また炎上を起こしていました。
https://twitter.com/tabbata/status/791067716769591297

先進国の住民が1人没落して困窮することで、発展途上国の住人は数人が、困窮レベルから、中産階級のローエンドくらいには来れるので、先進国での格差拡大は、全世界的には格差縮小になっている、と何度言ったらわかるのだろうか。これ、良い悪いの価値判断を超えた事実記述的な言説なのだよね。

 

氏は、有名な「象チャート」を見て、この感想を持ったそうです。これは仕方がないですね。世間一般によくある認識で、某氏がそうと思い込んでも無理はないでしょう。

象チャートについては、「グローバル経済の「負け組」は日本と旧ソ連圏だけというお話(木村正人)」という記事で、次のように紹介されています。

世界銀行の首席エコノミストだったBranko Milanovic氏と現エコノミストのChristoph Lakner氏の「エレファント(象の)カーブ」をご存知ですか。「この10年で最も影響力を持ったチャート」とも言われています。右側が長い鼻で、象のように見えることから「エレファントカーブ」と呼ばれるようになりました。

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木村正人氏記事より

ところがこのチャートに疑問を持ち、データを調べなおした調査機関があります。上の記事でも紹介されていますが、「格差問題に取り組む英国のシンクタンク、レゾルーション・ファンデーション」(レゾルーション財団)です。

このレゾルーション財団による検証結果について、英国のエコノミストであるフランシス・コッポラ氏が、「西側の低中産階級の停滞はグローバリゼーションのせいではない。責めるべきは政策」という記事で紹介しています。

「MilanovicとLaknerのデータを用いて、レゾルーション財団がチャートを検証したところ、次のことがわかった。グローバリゼーションは確かに何百万人もの人々を貧困から脱け出させたが、それは、西側の下層中産階級を犠牲にしたわけではなかった」

とのことです。

冒頭の某氏が、てっきり事実だと思い込んだことは、実はそうではなかった、ということです。

実は経済学では、良くこういうことがあるので、一見事実に見えるチャートやデータも、まるごと信じてはいけないのです。いつでも、「本当かな?何か変じゃないかな?こういう可能性もあるんじゃないかな?」と、一抹の疑いを頭の隅に置いておくことが、本当に重要です。

どうして象の形になってしまったかというと、このデータが作られている期間は、ベルリンの壁崩壊の直前から始まっており、ソ連の解体(1991)、日本のバブル崩壊(1990)といった、チャートの形に大きく影響する特別な出来事が起こっていたからだというのです。それによって、横軸の60~90ぐらいまでの中産階級が、ひどく没落しているように見えてしまうわけです。

というわけで、日本とソ連をデータから外してみましょう。下の図の赤い線になります。中国も取り除いてみましょう。そうすると、下の図の薄い線になります。ほとんどどの階級も、伸び率は一定になりました。

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つまり、中国の低~中産階級の収入は目覚ましく伸びたが、だからといって西側諸国の低~中産階級の収入が犠牲になったとは言えない、ということなんです。

西側先進諸国と一口にいっても、その中でもいろいろな状況があって、それもレゾルーション財団は分析しています。たとえばアメリカだけとってみると、格差はひどく拡大しているし、確かに中産階級の所得の伸びは停滞してます。しかし、アメリカよりもはるかに移民の多い英国で、低所得者層の所得の伸びが大きいのですから、グローバリゼーションが賃金を低下させるという見方はどうも違うのではないか、という話です。

この部分は木村正人氏の記事にもまとめられており、一節を抜粋します。

EUの低成長国イタリアでさえ、10分位数で分けたどのクラスも年2%前後の成長を達成しています。EU国民投票で「移民に仕事が奪われ、賃金が下がった」と騒いだ英国のボトム10%の所得は年5%近くも上昇していました。英国はEU加盟によって損をしたのではなく、得をしたのは疑いようのない事実です。

 

フランシス・コッポラ氏の考えでは、アメリカの中産階級の停滞については、グローバリゼーションのせいにはできそうになく、むしろレーガン時代の減税だとか、コーポレートガバナンス系の問題などといった、国の政策や規制のあり方が影響しているのではないか、とのことです。